近清の歴史


バブルに沸き、そして弾けた元禄時代(1680~1709)、その後始末を使命に、享保元年1716年、八代将軍の座についた徳川吉宗は、財政立て直しの一環として米相場の安定を目指し、今で言う規制緩和を推し進め、士農工商制度の農工商の垣根を低くしたことにより、農民が自分で作ったものを直接販売することが可能になりました。

 

まさにその改革の波に乗り、近江の国で米問屋をしていた初代清右衛門(せいうえもん)は、近江の産物を販売する直営店「近江屋」おうみや)を魚の棚通(現六条通)仏具屋町に構えます。

 

当時は「錦小路」(現錦市場)「上乃棚」(椹木町通)「五条の棚」(現六条通)が京の三店(さんたな)と呼ばれるほど商いが栄えた通で、魚の棚通(現六条通)は本願寺門前町として門徒客で大層賑わった商店街でした。

 

当初は本拠地を草津に置き、米・野菜・味噌・醤油を運び込んで販売するだけでしたが、残り物の野菜を捨てるのは勿体ないとぬかや味噌に漬けて売り出したところ、これが大層評判を呼び、店前に行列を成すようになりました。初代はこれを機に問屋を廃業、近江を引き払い、京に居を定め、近江屋の「近」、清右衛門の「清」を取って「近清」と称号を定めて新たに野菜の加工屋として創業したのが明和元年(1764年)のことでした。

 

今にして思えば、吉宗の改革がなければ近清は存在していなかったでしょう。

その後代々、それぞれのやり方で漬物業に邁進し、江戸時代末期には西本願寺に屯所を置いていた新撰組に沢庵を納めたり、明治時代半ばには京都を代表して幾度となく勧業博覧会に出品し、独特の風味が評価され「胡瓜奈良漬」で大賞をいただいております。

 

昭和52年には「京都市が選ぶ老舗」(100年以上の歴史がある京都の伝統産業のお店)に選定され、平成16年には弊社の製造する「千枚漬」「すぐき」「しば漬」の三品が正式に京都ブランドの認証を受けました。

創業時は主に門前客相手に奈良漬・味噌漬・ぬか漬を、明治に入り地元客対象に千枚漬・しば漬・辛子漬・すぐきを、昭和初期には料理屋向けに蕪・白菜・大根などの浅漬をレパートリーに加え、亀岡の農家数軒に栽培を委託、昭和50年代に入ると福島県稲田有機農法研究会や長崎県有機特農会と、次々に理解者を見つけ、契約栽培の先駆けとなり、昭和54年には伝統製法を守る良心的な食品製造業者の勉強会「良い食品の会」に入会、純正な加工法と添加物に依存しない商品作りを目指し、より鮮度良く商品を仕上げるために昭和62年に契約農家の多い亀岡の地に第二工場と作業場を設立しました。