幕末、京の町にて尊攘派志士を震撼させたあの新撰組。
その新撰組の若い隊士たちを近清が助けたというのは少し大袈裟かもしれませんが、全くのデタラメでもないのです。
と言いますのは、元々近清は初代が江戸時代半ばに本願寺境内、最北端の楽市に漬物店を出したのが起源。
本願寺のど真ん中を通る西洞院川が発祥の地。
そんなご縁で、江戸時代半ばから明治初期まで「おひがしさん」(東本願寺)、「おにしさん」(西本願寺)、どちらのお膳場にもお漬物を献上していました。
元々お寺さんは精進料理。朝昼晩とお漬物は決して欠かせない必須アイテムでした。それゆえ当時の店主は色々と工夫を重ね、様々なお漬物を考案したと今に伝わっています。
そんな中、1862年に30人ほどの壬生浪士隊として生まれた新撰組が、名声を浴びると共に、どんどん膨張し、ついには200人規模の大所帯になり、さすがに壬生の屯所では入りきらず、当時の京都守護職・松平容保の計らいで1865年から西本願寺を本拠地として活動します。
その時、新撰組隊士の胃袋を支えたのが、門前の商人たち。
お漬物は必然的に近清が。
そんな中、隊士たちにとりわけ珍重され喜ばれたのが、様々な種類の奈良漬と本干のぬか沢庵。
新撰組局中法度に「迅速な出動を要すべし」と記されていますが、いつ何時、出動があるか分かりません。ただ、一旦出動してしまえば、これがいつ終わるかも分からぬ勤め。
腹が減っては戦はできぬと言いますが、桶狭間の戦い、かの織田信長が「敦盛」を舞った後、茶漬けをかっ込み出陣したというのは有名な史実。
出陣前に腹ごしらえに茶漬けをかっ込むのは武士の慣わし。
新撰組隊士が出入りしていた西本願寺のお膳場には、常にどんぶり鉢に近清の納めた沢庵と奈良漬が微塵切りにして盛られ、いつでも茶漬けをたらふく食べられるように準備されていたそうです。